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植松光子のアレルギー遍歴:その3

家族を救った母の手料理

 

学生時代、私は自分のめちゃめちゃな食生活のためか、アレルギーに悩まされました。

しかし静岡の実家に帰り、母の手料理を食べているうちにいつの間にかすっかり治ってしまいました。

母は食事が健康の源、という信念で人生を貫き通しました。そのお話を少しさせて下さい。

戦後父は劣悪な戦地の環境で結核になり、担架に乗せられ、日本に帰ってきました。

当時結核の薬はなく、空気の良いところで安静にするしか治療法はありませんでした。

家族のために戦後のバラックに紳士用品店を作って直に父は天竜川の上流の奥地に入院。

10年間をそこで過ごしました。

30代の若い父にとって寝ているだけという生活はさぞ辛かっただろうと想像されます。

 

退院後母は今まで栄養のことは何も知らなかった、お父さんに申し訳ないことをした、と悔やみそれから香川女子栄養学校の通信教育を受け始めました。

小学校しか出ていない母が毎晩夕食の片づけが終わった後「えーとプロテインスコアとは?」などとつぶやきながら勉強していました。

 

料理も急においしくなり、子供心にびっくりしたものです。

そして2年しか生きられない、と言われた父は82歳まで元気に生きることができました。

(写真:父と母)

母は3人の子供を育てながら、父と一緒にお店を父とやり、三食父のために料理を作りました。

昼も出かけることなく昼食を作り、なんと50年間欠かさず作り続けたのです。

出かけることの好きな私には、とても真似ができません。

父も母もよく笑い、特に父は叱るときはなぜか豪快に笑う人でした。

*次回は母のメニュー*