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初めまして、長山です。
皆さま、初めまして。ウエマツ薬局 薬剤師の長山亜耶です。
2月よりウエマツ薬局でお世話になり、
4月から日本中医学院 通信コースに入学致しました。
現在は2歳の娘のママをしています。
光子先生の投稿で紹介がありましたように、
以前薬学部の学生実習の一環として、2日間ウエマツ薬局でお世話になったことがあります。
その時は、漢方薬局は調剤薬局とはまた違う世界でとても面白いなぁ……と思ったのを覚えています。
大学卒業後は、大学病院で主に病棟業務に携わっておりました。
担当していたのは消化器一般外科、肝胆膵外科、ICU、オペ室などです。
医師に手術前後の薬剤の提案を行うことや、点滴ルート管理、
抗がん剤の適正使用のチェック、また医療用麻薬も頻繁に使用する科でしたので、
投与量チェックなどを多く行ってきました。
結婚を機に、調剤薬局に転職し、調剤業務だけでなく在宅医療にも携わってきました。
そして、妊娠・出産を経てそろそろ社会復帰をしようかな……というところに、
光子先生より就職のお誘いの電話があり、入局することになりました。
久々に薬剤師として復帰し、今まで勉強してこなかった漢方の世界に入ることになり
毎日あたふたしておりますが、日々感じたこと・学んだこと・日常の出来事など、
こちらでお伝えできればと思います。
よろしくお願い致します。
写真は、少し前のお花見をしたときのものです。
最近はなかなか外出もできないので、久し振りの外出で娘もとても喜んでいました。
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ある若い女性薬剤師の物語・3
これは彗星のように輝やきながら飛び去った彼女の人生の軌跡をたどる物語です。
その3 MRSAの研究、脳低温療法の研究手伝い
病院時代は24時間勤務で朝9時に出勤すると翌朝9時に終了という厳しいものでした。
しかし、大学出たての若さあふれる彼女にとっては
朝9時に終了するとその日一日遊べると喜んでいました。
あるときは、そのままスキーに出かけてまた勤務といったことがあり、
周囲を呆れさせました。
さすがにしばらくしましたら遊びには出かけなくなりました。
(写真 大学病院時代)
仕事は当時薬剤師としては初めての病棟薬剤師の仕事をはじめました。
患者さんに薬の飲み方などの説明をするのですが、
患者さんに明るいキャラクターが受け、
彼女の来るのを心待ちにしている患者さんが多かったようです。
薬剤師は30名ほどいて、新米はM一人だけ。
皆が「Mちゃんお願いね」と雑多な仕事を持ってきて、
とても一日で終わりそうもない仕事量で、あるとき泣いてしまったそうです。
「Mでも泣くのか」と言われたそうです。
その後は、救命救急センターの集中治療室に薬剤師のブースができ、
そこでMRSAにかかった患者さんに、抗生物質バンコマイシンを点滴する際の
薬剤の血中濃度を測る仕事を任されました。
MRSAとは、多くのペニシリン系やセフェム系薬に耐性を示す黄色ブドウ球菌株のことで、
当時これで死亡する患者さんが多く騒がれた細菌です。
唯一有効な抗生物質のバンコマイシンの有効濃度と中毒濃度が接近しているので、
点滴をする際、その濃度を決めるのがとても大変だったのです。
そのため集中治療室で患者さんの血液を採って即、
血中濃度を測り必要なバンコマイシンの濃度を決定するのです。
薬剤師の能力を発揮する有意義な仕事でした。
この厳しい職場では
「明るく、前向きな姿勢、愚痴や悪口を言わない」がモットーだったそうです。
その後も学会にいくつもの研究を発表したり、
ある時は「脳低温療法」で脳医学者として
世界的に有名な林成之教授のチームに加わったこともあります。
「脳低温療法」は重症の患者さんの腫れあがった脳を冷やすことで
脳神経細胞を保護し脳死を防ぐ療法です。
元サッカー日本代表監督のイビチャ・オシム氏がこの方法で救われています。
大学時代勉強しながらモデルをやった馬力が、病院時代は研究発表の馬力に変わり、
大いに薬剤師として充実した時期だったと思われます。
30人の先輩薬剤師にもまれ、大変だ、大変だと言っていたにもかかわらず、
神戸で結婚式を挙げたときはその先輩たちが泊まりがけで5人も来てくださり、
手作りのブーケやカードを作ってくださいました。
そして大変だったけれども、
この愛した日大板橋附属病院救命救急センターの集中治療室で
皆に見守られながら亡くなるとは、だれが想像したでしょう。
次回は「その4 中医学の道に進む」です。
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ある若い女性薬剤師の物語・2
これは彗星のように輝やきながら飛び去った彼女の人生の軌跡をたどる物語です。
その2 日大板橋病院救命救急センター時代・・笑い声で採用される。
就職先を考え私の恩師 東京理科大学薬学部の教授 辰野高士先生に相談しました。
当時辰野先生は日本の薬学の教育関係の教育関係の第一人者でした。
温厚な人柄と生粋の江戸っ子で、べらんめえ調のユーモアあふれる授業で人気がありました。
ちなみに今話題の東京駅を設計された辰野金吾博士は
先生のおじいさんに当たり、写真で見るお顔はそっくりです。
先生は「大学病院の研修生ならいろんな分野が体験できて、
将来役に立つよ」とおっしゃいました。
そしてちょうど募集していた日大付属板橋病院の研修生の試験に受かり
半年間研修できるようになりました。
やっと大学を卒業したところでまた無給の研修生は厳しかったのですが、
娘の将来のためと応援しました。
(写真 大学時代 実験室で)
そして半年後、空きのなかった日大医学部付属板橋病院救命救急センターに
見事就職できました。
空きがない、という話でしたのであきらめていたのですが、
後日、当時の薬剤部長が彼女の結婚式の祝辞でこう述べてくださいました。
「救命救急センターというところは、野戦病院のようで毎日急患が大勢来て、
職員も殺気立っているところです。
その中でMの笑い声が皆の気持ちをほぐしてくれました。
実は採用する予定がなかったのですが、そんなわけで特別Mを採用しました」と。
おやおや笑い声で採用されたとは!!
しかし救命中大きな声で笑っているとは?
みなさん、笑い声で採用されることもあるのです。大いに笑いましょう!
次回は「その3 MRSAの研究、脳低温療法の研究手伝い」です。