-
婚活妊活ビンボーは怖くない。その14
給料が3か月続けて消えた
パートの仕事も慣れ、子供たちも保育園生活に慣れ、
ようやく生活も落ち着いた頃、
給料が3か月続けて消えるという事件がおきました。
ある晩、夫の高校時代の友人が突然訪ねてきました。
仕事で失敗したのでお金を貸して欲しい、とのことでした。
ほとんど貯金のない我が家で、どうしたら貸してあげられるか、
はてと思案していましたら夫が
「いいよ、あげるから返さなくてもいいよ」と、
その月の1か月分の給料の半分くらいの金額を『ポン!』とあげてしまいました。
夫は、彼が友人の多くに借りて歩いていて返していないのを知っていました。
夫は「貸す、というと返さなくては、と気持ちに負担ができる。
どうせ返せないのだから、あげるといった方があいつは気持ちが楽になるだろ。
こっちも期待しなくて済むし。」と言いました。
私は「ふーん、そういうものか」と人間の気持ちの動きを面白く思いました。
しかし我が家にとっては大金でした。
その後30年以上たちますが年賀状も一通も届かず、
どうしているだろう、と時々思い出されます。
その翌月
楽しみにしていた給料日です。
その頃、給料は銀行振り込みではなく現金でした。
どの家庭も、この時は夫の権威が発揮される時です。
妻はごちそうを作って待っていたものです。
今のサラリーマンは可哀そうです。明細票1枚ですから。
私も結婚した時、夫の母に「何が好きかしら?」と聞きましたら
「かっちゃんは豚カツが好きだから、豚カツさえ出しておけばご機嫌よ」
と言いましたので、給料日はいつも豚カツでした。
当時、豚カツはご馳走だったのです。
この日も豚カツを用意して待っていました。
しかし、酔って遅く帰って来て
「同僚とお酒を飲んで歩いていたら、
バーの大きなガラスのドアに同僚がぶつかって、
一枚ガラスのドアを割ってしまった。
10万円弁償するように言われたので、オレが払ってきた、
あいつのうちは金がなくて大変なんだよ」と。
当時10万円は給料の全額です。昭和50年ごろです。
外資系の会社ですし、残業も多かったので平均よりは多い方でした。
私は心の中でつぶやきました
「うちだってお金がないんだけど・・・・」
当時、学童保育に子供を二人も預けている家庭は珍しいと、テレビ取材を受けました。
さてまたその翌月の給料日。
さあ、こんどこそお給料がはいる!!
と楽しみにまた豚カツを作って待っていました。
ところが・・・。
次回をお楽しみに!
-
婚活妊活ビンボーは怖くない。その13
「夫は家族を食べさせてやっている」は本当か?
日本では夫が働いて家族を養い、妻は子供を育て家を守る、
という風習が長く続いてきました。
今の若い人の間ではその考えはだいぶ薄らいできたように感じます。
しかし、主婦が正社員として働く人はいまだに少なく、パートが圧倒的です。
家事をやりながら勤めるのは、時間的にも大変だ、
子供の学校の行事や役員をやらなければならない、
と言った理由で、妻もパートを選ぶことが多いのが現実です。
したがって、収入の面でも夫の方が多く、
妻は扶養家族として扶養控除を受けています。
扶養控除があるため税制面でもパートのほうが有利なので
必然的にパートになってしまっています。
意識の上でも夫に従属してしまい、離婚を考えても生活出来ないので、
大事な人生を我慢で過ごしてしまう人もいます。
しかしこの優遇税制は女性の自立にとって実は悪法です。
国も経営者側も、パートで給料を安く抑えたほうがよいので
この制度を利用しているのです。
結婚とは男女が同等の権利と意識をもって相手を尊重し、
敬って生活することだと思います。
「おかみさん=神様」と言われ、家の中では妻は一番威張っているように見えますが、
実は夫側は「食べさせてやっている」という意識が日本人の男性にはあります。
私は長女が小学校に入った時、フルタイムの管理薬剤師の仕事を頼まれ、
思い切ってパートをやめ、正社員として働き始めました。
その時夫は会社に扶養控除をはずす届を出すとき
「夫が妻を養っていけないのでは甲斐性がない、と言われそうだ」と渋っていました。
昭和50年頃の話です。最近の意識はどうでしょうか?
写真:次女と公園で遊ぶ夫
私も、結婚した時は働いていなかったので、夫に食べさせてもらっている、
と思って自分の物は一切買いませんでした。
昼食も自分だけ食べるのは申し訳ないと思い、水を飲んでいました。
おかしな話ですが何となく夫が苦労して働いて得たお金で
夫と別のものを食べるのは申し訳ないような気がしたからです。
おかげで結婚当初は、ぎろぎろにやせてしまいました。
その後も夫はほとんど毎晩帰りが深夜で、夕食は家では取らなかったので
生活費はすべて妻と子供が使っているような気がしていました。
しかし、ある時気が付きました。
夫も半分は使っていると。
長女が3歳の時、アメリカに夫が単身赴任で1年行くことになりました。
昭和48年です。
まだ1ドル360円の時代で、アメリカへ行く人は珍しく、
羽田で会社の人が集まって「バンザイ」と送ってくれました。
夫がいなくなり、さっそく家事の手抜きです。
まず朝の味噌汁をやめ、煮物もやめて炒めものにし、
入浴もお湯が汚れないので1日置きにしました。
そうしましたら、翌月からガス代水道代食費が半分に減りました。
そこで
「なあ~んだ、家で夕食を摂らないので
夫は何も生活費を使っていないと思っていたけど、
半分は使っているじゃない」と覚った次第です。
「夫も半分は使っている、食べさせてもらっている、と小さくなる必要はないんだ」と。
それから少し私の態度も大きくなったようです。
夫が渡米して1カ月した頃3歳の長女に
「ママ、お味噌汁が飲みたい(´□`。)」と言われました。
負うた子に教えられる、と言いますが、3歳の子に言われ、
恥ずかしくなりそれからは、きちんと毎朝味噌汁を作ることにしました。
昆布と煮干しで出しを取った味噌汁を30年以上続けていますが、
私は自分で「おいしい、おいしいo(〃^▽^〃)o」と言いながら飲んでいます。
次回は女性が働くことについて。
-
婚活妊活ビンボーは怖くない。その12
*夫の父も二男坊
私がビンボー生活は当たり前、
と思ったのは夫の父も影響しています。
夫の父は栃木県の村長の二男。
村長だった祖父は銅像もあるくらいですから、
人望もあり、村に尽くした人だったでしょう。
しかし義父は長男ではないので、家は継ぐことはできず、
東京に出てきて早稲田実業学校に入り、そこの給仕をしながら苦学したそうです。
沖電気工業に入社、そして結婚。
4人の子供全員を、サラリーマンをしながら大学に行かせてくれました。
ボーナスはすべて学費に回ってしまいました。
夫の母は教育が大事、と一生懸命子供たちを教育し、よい学校にあげてくれました。
結婚に関しても、のんびりしていた夫に、
大事な娘さんを待たせては駄目だ、とお金がなくてしぶっていた夫の尻を叩き、
結婚させてくれました。
お金がないのは、よくわかっていて夫の母は
「新婚旅行のお金あるの?」と心配してくれましたが、
ないからといって親が出す事はありませんでした。
当時はどこの親もそうだったと思います。
最近の人は新婚旅行に行かない人もいます。
私の経験では生活費を考えない内に行ってきた方がいいと思います。
なんと言っても、人生で一番楽しい思い出が出来ますから(^-^)/
写真『夫の両親と。娘たちはお揃いの洋服を着て。』
義父は数年後、がんで亡くなる時も泰然自若としていて、
不安な気持ちや苦しい様子を見せず、
私は人が亡くなる時にこんなに静かな気持ちで亡くなることが出来るのか、と思いました。
もう危ない、という知らせで、私の父が静岡から出てきて病室に見舞いに行った時にも
「やあ!退院したら一緒にゴルフをやりましょう!」
と言ったので、私の父はびっくりしていました。
自分で勝手に退院計画を建て、
「30日になったら退院だよ」などと言って楽しみにしているので
家族は不思議がっていました。
こんな誠実で、一生懸命家族のために働き、生きてきた義父を見ていて、
私は彼も義父のように誠実な結婚生活を作っていくだろう、と思い、
結婚してお金がない生活が続いても不安は全く感じませんでした。
次回をお楽しみに!
-
婚活妊活ビンボーは怖くない。その11
《ビンボーが怖くないのは二人の父の影響》
私がビンボーを恐れないのは二人の父の影響があります。
私の父は、母をとても大事にし、
結婚当時の事を懐かしそうによく話してくれました。
当時は結婚前に顔を合わせることもなく、
結婚式当日に初めて顔を見る、と言うのがフツーだったそうです。
考えられない事です。
しかし父は、結婚前に母の家に行って、
垣根から母の顔をそっとのぞき見したことや、
結婚式の費用を祖父が
「お前の郵便貯金通帳から出しておいたよ、とおじいちゃんに言われた」
などと話していました。
その話を聞いて私は結婚式の費用は自分で出すものなんだ、と思ったのです。
私は高校3年の夏休みに、それまで短大志望でのんびりしていたのですが、
突然大学へ行きたくなり、
親に「どうしても大学に行きたい、結婚式の費用は要らないから」
と頼んで行かせてもらった経緯があり、
就職してから給料の半分は貯金し、
それを結婚資金にあて、
退職金の5万円が持参金!!となった、というわけです。
祖父は明治時代静岡県で初めて理髪店を開いた人です。
横浜に修行に行き、静岡で店を持った時、
その当時はまだ、ちょんまげも多く、
理髪店は最先端のファッションだったことでしょう。
県知事や市長さんなどがお客で来たそうです。
私も戦後の何もない時代、
お客様のマッケンジーさんという、
名誉市民のアメリカ人のお宅にクリスマスに招かれ、
大きなクリスマスツリーの周りで手をつないで踊った記憶があります。
その時食べたクッキーに
「この世にはこんなにおいしいものがあるんだ」とびっくりしました。
写真『父と母』
父はその二男に生まれました。
戦前は家を守るため、長男だけに家の財産をすべて譲り、
二男以下は財産はもらえず、家を出て独立しました。
父は自分の事は自慢をしない人でしたが、
父が亡くなった時、葬式で当時の友人が
「勇ちゃんは成績が良くて、
皆の憧れの静岡工業高校(今の静岡大学工学部の前身)に入って、
その頃珍しかったカメラをもっていてうらやましかった」
と弔辞で話してくださり、父を見直しました。
私には一回も勉強しなさい、と言ったことはなく、
むしろ通信簿の「協調性」のところをいつも注意されました。
しかし小学校1年生の時、
自転車の後ろにのせて日記帳を買いによく連れて行ってくれたことを、
日記帳の鮮やかなピンクの色と共に思い出します。
私は高校時代はもう勉強はしたくない、と短大志望で遊んでいました。
幸い英文の短大なら日本中のどこでも入れる、
と先生に言われ、のんびりしていたのですが、
突然高校の3年のそれも夏休みに入ってから、思ったのです。
「短大に入って1年は夢中で過ごしてしまうだろう。
2年になったらもう就職活動、
そうしたらじっくり勉強は出来ない。
もう一生勉強が出来ないんだ」
と思ったら、あんなに苦痛だった勉強が突然したくなったのです。
そして短大文系のコースから、4年制国立理系のコースに3年の夏休みから変更しました。
当時の学校ものんびりしたものです。
足りない授業は夏休みに職員室で補講です。
文系に行きたかったのですが、
父に4年制に行くなら資格の取れる薬学部でなければ駄目だ、
と言われ薬学部にしました。
新聞記者になって世界中飛び回りたかったので、
大学に入って一時は悶々としたこともありましたが、
今では薬剤師になり、漢方という天職に出あい、
親には感謝しきれないくらい感謝しています。
子供3人を静岡から東京に出し、経済的にとても大変だったようですが、
両親は二人ともよく笑い、父は普通は怒るような時でも「わっはっは」と笑う人でした。
私が東京のへ大学受験に来た時、
受験の前日に父は
「SKD(松竹歌劇団)のレビューを見に行こう」と誘い、
私は「おやおや、こんな親がいるかしら」と思いました。
その時に受験した大学は落ちました
卒業式には静岡から出てきてくれ、
式の帰りにはダンスホールに行って父とダンスを踊りました。
次回をお楽しみに(^^♪
-
婚活妊活ビンボーは怖くない。その10
その頃は、週3回薬局にパートに行っていました。
他の日は子供を預けてカルチャーに行っていました。
保育園に入れたおかげで私は落ち着いて仕事に専念出来ました。
夢中になると何もかも忘れてしまう性格で、
あるときは夕方、保育園に娘を迎えに行くのを忘れてしまいました。
夕飯の支度をしながら「今日は静かだなあ~」
とのんびり食事を作っていたら
保育園から電話がかかってきて大慌て
娘からは後年何度も
「お母さんは私を保育園に忘れた」と言われました。
それも2回です。
こういう性格なので仕事は仕事、育児は育児、
洋裁は洋裁となんでも楽しんでやってきました。
仕事と家庭を両立するのに疲れている方は多いですが、
あまり100点を目指さない事が長つづきするコツだと思います。
あるとき私は夫に言ったことがあります。
「仕事は30点、母親としても30点、妻としても30点、でも合計すると90点、
すごいでしょう!!!」(^▽^)/
夫はあっけにとられたような顔で、小さい目を白黒させていました。
写真説明:保育園大好きの次女
仕事も週3回のパートでしたので、夫は
「遊んでいるようなものだ」と言って全く家事は協力する気はないようでした。
確かに食うか食われるかの厳しい職場で、
深夜まで神経をすり減らして働いている男性にとって、
私のような仕事は楽に見えたのでしょう。もちろん楽でした!!
しかし、長女が7歳になり、フルタイムの仕事になってからはガラッと変わり、
協力してくれるようになりましたo(〃^▽^〃)o
男性と同じ時間を働き、さらに家事、育児をすることになった妻を認めたのでしょう。
それ以後、よき私の理解者となり今日までよく協力してくれています。
フルタイムで働きたいのに彼女の夫が許さない友人がいました。
その時私の夫は
「妻がしたいことをさせてやるのが夫の務めだ。
どうしてさせてやらないのかなあ~」と言っていました。
次回は「結婚時持参金が少なかったわけ」・・・5万円では持参金とは言いませんね。