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植松光子のアレルギー遍歴:その2
さて私が20歳の時に、東京オリンピックが開催されることになり東京中、新幹線や高速道路の建設で空気は汚れ、見上げる空は真っ黒でした。
当時私が下宿をしていた神楽坂の近くの市ヶ谷は「市ヶ谷喘息」として有名になりました。
私も朝目が覚め、頭をあげようとすると咳が始まり、10cm以上は上げられませんでした。
大学の試験の最中も咳が出始め、周囲に迷惑がかかるので、大急ぎで答案を仕上げる日々でした。
事務課の職員に
「あなたはいつも試験になると咳が出るわね」と言われ
「ストレスがきっかけになっているかもしれない」と気がつきました。
また、東海道新幹線もでき、それまで静岡まで4時間かかっていたのが1時間でつくようになりました。
ピンクのスーツを着てストッキングをはいて新幹線に乗りました。
ちょうど手の届くひざ下に5㎜位の湿疹ができていて、気になるので乗っている間中掻いていました。
そして静岡駅に着いてびっくり!! 体中赤いぶつぶつした丘疹だらけ。
駅から降りて、そのまま皮膚科に飛び込みました。
自家感作性皮膚炎でした。掻くことにより痒みを起こすヒスタミンが毛細血管に乗って体中に皮膚炎を起こしたのです。
ウエマツ薬局でも同様の患者さんが「これはなんでしょう?」と聞かれることがあります。
自家感作なので他人にはうつらなく、自分の体だけに反応するのです。原因は自分です。
大変だった薬剤師の国家試験もどうにか終わり、実家のある静岡に帰り、病院に勤め始めました。
ところが、ストレスからか、あちこちに皮膚炎ができ始め、今考えるとアトピーだったかもしれません。
体中包帯だらけで、まず朝病院に出勤すると皮膚科の予約を取り、勤務中院内マイクで呼んで下さるので受診するといった繰り返しでした。
花の20代もこんな風にアレルギーとの闘いでした。何に知らない薬剤師の卵でした。
しかし母の手料理で皮膚炎も喘息もおこらなくなり、手料理の偉大さに気が付きました。