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ある若い女性薬剤師の物語・8
これは彗星のように輝やきながら飛び去った彼女の人生の軌跡をたどる物語です。
その8 、突然の死
1月にインフルエンザに罹ったあと、生理の出血が止まらなくなり、
ピルで出血を抑えたあとひどい生理痛が始まりました。
顔色も青くなり、おなかを押さえながら患者さんの相談にのっていました。
生理中以外でも痛むのは、おかしいから早く病院で診てもらうよう言いました。
しかし、長女の妊娠以来かかっている大学の産婦人科教授をとても信頼していましたので、
予約がある1か月先まで鎮痛剤を飲んで我慢しながら仕事をしていました。
私は、その間不安にさいなまれていました。
そしてやっと予約の4月9日、病院に行きましたら、その先生は転勤されていて、
ほかの教授が見てくれました。
血液検査も特に異常がなく、
「エコーでは月経血がたまっていて出そうとして痛みを起こしている、」という診断でした。
そしてそれほど痛むなら子宮を全摘する以外はない、と言われ、
第2子を希望していた彼女は、それは決心がつかない、とほかの病院を探し始めていた4月21日、
突然意識を失い、元の勤務先日大板橋病院の救命救急センターに担ぎ込まれました。
倒れる前日まで、国際薬膳師の受験勉強をし、結婚式にも出席していました。
40度の発熱と血圧が極度に低下し30しかない、敗血症の疑いがある。
多臓器不全で死亡するだろう、と言われました。
全身の粘膜から出血しているので原因を調べたい、と腹部の切開をし、
子宮からマヨネーズのような3cm大の黄色い膿の塊が出てきました。
抗生物質も全く効果がなく、毎日全身から出血が続き、
出血をおさえるガーゼを交換するため5回も開腹手術をしました。
その間出血が止まらないのに止血剤が使えない、
全身の微小血管内で血液の凝固が起こる播種性(はしゅせい)血管内凝固が始まり、
ただ出血をおさえるガーゼを交換する開腹手術しか手立てがないようでした。
私は中国へ何度も行って、中医学(漢方)を長年勉強してきました。
漢方薬には止血しながら体内の血栓を溶かすものがあります。
また中国では漢方薬の点滴や注射が日常使われています。
何とか漢方薬を使えないか病院に相談してみましたが、
意識がない段階では無理だと言われ、使えませんでした。
漢方薬が日本でも点滴や注射になっていたら少しは役立ったかもしれない、と無念です。
しかし病院挙げての必死の治療のためか、知人の気功師が病院に来て、
一生懸命気功をやってくださったおかげか、今考えると不思議ですが一時は意識を回復し、
4歳になったばかりの子供の歌声と「ママ、がんばってー」というスマートホンの声に耳を傾け、
希望が出てきたこともありました。
5月10日の妹の誕生日もがんばってくれて迎えることができたのですが、
その翌日5月11日さすがに元気な人も力尽きて亡くなりました。
化膿したところから猛毒のエンドトキシンが全身に回った、
エンドトキシンショックによる敗血症でした。
死の恐怖も苦しみもなく、すっと魂が体から抜けていったような感じでした。
・・・・翌5月12日の母の日。
彼女が生前頼んであったハイビスカスの鉢植えが
「おかあさん、ありがとう」という彼女の手書きのメッセージカードと一緒に我が家に届きました。
毎年無事に冬越しし、夏の太陽に負けない、
彼女のような真っ赤な大輪が毎年夏になるとたくさん咲き続けています。
(写真説明 彼女が贈ってくれて3年目のハイビスカス)
* *次回は「その9、仲間の応援」です。* *
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ある若い女性薬剤師の物語・7
これは彗星のように輝やきながら飛び去った彼女の人生の軌跡をたどる物語です。
その7 「漢方薬膳サロン ウエマツ薬局」を立ち上げる。
幸せな結婚をし、よき理解者のもと、仕事と勉強に打ち込み、
2008年11月念願の「漢方薬膳サロン ウエマツ薬局」を埼玉県川越市に立ち上げました。
それまでは本店と支店があったのですが、
アトピー相談の患者さんが全国から見えるようになり、
手狭でゆっくり相談ができないということで本店支店を一緒にして新装開店となりました。
(写真 新装開店 漢方薬膳サロン ウエマツ薬局)
患者さんがほっとくつろげるよう、癒しの場を作りたい、と
二階の待合室は喫茶店風に丸テーブルにし、
薬膳スイーツを無料で来店のつど差し上げられるようにしました。
(写真 2階 薬膳サロン)
三階には、ヨガや太極拳、気功、漢方薬膳教室などできるよう頑張ってくれましたので
今ではみなさん楽しんでいます。このような薬局は日本でも数少ないでしょう。
いつも患者さんのことを考え、その笑顔は一度見たら忘れられない、という方が大勢います。
不妊症とアトピーを得意とし、不妊に悩む方、アトピーで悩んでいるかたに
親身に相談にのり、中医学の漢方で多くの赤ちゃんが誕生しました。
さらにオリジナルの化粧品「花しずく潤(るん)」の
ミルキーローション、エッセンス、クリームも作り、
商標登録もセンスを生かしたものが出来ました。
また薬膳に興味を持ち「薬膳は素晴らしい学問だ」と
難関の中医国際薬膳師の試験の勉強をしているうちに病に侵されました。
(写真 漢方薬を飲んで生まれた赤ちゃんを抱いて)
* *次回は、「その8、突然の死」です。* *
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ある若い女性薬剤師の物語・6
これは彗星のように輝やきながら飛び去った彼女の人生の軌跡をたどる物語です。
その6 育児と仕事
30歳になり、早く子供を作るように言ったのですが、
1年間は二人で楽しみたい、と言って子作りを伸ばしているうち
今度は、なかなかできませんでした。
彼女は中医学で不妊症のかたの相談を受けて、
患者さんは妊娠させることができているのですが、
自分というものは難しいものです。
一度は子宮外妊娠で泣きましたが、その後やっと34歳で妊娠しました。
我が家は両親ともアレルギー体質の家系ですので
妊娠中、彼女は非常に食事に気を付けました。
アトピー患者の漢方相談も受け、アトピーの辛さをよく知っているので、
アトピーにはしたくない、と真剣に食事には取組みました。
以下は彼女の著書(共著)である
「図解 アトピーを治して妊娠する本」<農文協>より抜粋
コラム・・・・・・・・・・・・・・・
美肌と赤ちゃんのために「肉なし、和食中心」に変身
肉が大好物のMさんですが、ある日から
「肉、乳製品抜き、和食主義」にガラリと変身しました。
きっかけは妊娠。祖母をはじめ、母、妹、自分までみんなアレルギー体質という家系を
「子供に引き継いでなるものか!」と一念発起したのです。
夫も巻き込み、体質改善食生活が始まりました。
まずは朝食改革。パン・ヨーグルト・卵・ベーコン・バナナを、
ご飯、(胚芽米や玄米)・味噌汁・納豆などに変えました。
野菜は有機野菜で旬のもの。
これだけで乳製品や添加物、化学調味料の量がドンと減りました。
だしも手作り天然だし。
一部略
しかしMさんは、肉やケーキを全く食べなかったわけではありません。
徹底すぎると息詰まるので、たまには友人と好きなものを食べて楽しみました。
1割くらいは好きなものを食べてもいいでしょう。
その結果誕生した娘さんは、いちど粉ミルクで発疹が出ましたが、
それ以外はトラブルもなく、きれいな赤ちゃんです。
・・・・・・・・・・・・・・
育児をしながらも勉強が大好きな彼女は、
日曜日は子供を夫に任せ、よく勉強会に言っていました。
離乳食も夫がよく作っていました。
*次回はその7「漢方薬膳サロン ウエマツ薬局を立ち上げる」です。*
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ある若い女性薬剤師の物語・5
これは彗星のように輝やきながら飛び去った彼女の人生の軌跡をたどる物語です。
その5 結婚そして料理
勉強と仕事に夢中の彼女に、周囲は結婚を心配し始めました。
まず料理の勉強も、と言っても関心のない彼女は見向きもしません。
やっと彼ができ、彼が出来たら料理の勉強を始めるかしら、
と思っていたのに、やはりしません。
結婚が決まったらさすがにするかしら、と思っていましたが、
結婚式も決まったのにやる気もなさそうです。
ある日曜日、漢方の勉強会と料理教室の日程が重なり、
「どうしようかなあ」という彼女に家族は一斉に「料理教室!」と叫びました。
今の人たちが結婚をしたがらない理由の一つに、
家に帰ればいつでも料理が出来ている、という恵まれた環境があります。
しかし結婚し、家庭と仕事を両立させるには、手早く料理ができなければなりません。
その点を親は心配するのです。
彼女は婚約をしたと思ったら、あっという間に29歳で結婚。
そして楽しかったイタリアへの新婚旅行から新居に帰ってきて
料理のない空っぽの冷蔵庫に現実に引き戻されたのでしょう。
帰国のあいさつの電話で開口一番
「おかあさーん、料理は作らなければ食べられないよね」
この言葉には家じゅう笑ってしまいました(*^.^*)。
それからは両家で料理作戦。
連れ合いのお母さんからはレシピと材料が送られてくる。
我が家でも夫が娘からの電話を受けて
「拍子木切りって、おまえ、拍子木みたいに切るんだよ」などと教えている。
毎日両家で「ちゃんと食べているだろうか」と心配しているうちに
二人から両家に食事の招待。
どんなものが出るだろうかと心配していたら、9品目の野菜たっぷりのおいしい料理。
彼の食通のお父さんが「焼き豚は少し下味が足りないけど、合格」
実は、彼が結婚してから料理が趣味になって
休みの日はたっぷり作っておいてくれている、と言うことでした。
やはり結婚はお互いに足りない面を補う、といいますがよく言ったものです。
**次回は「その6、育児と仕事」です。**
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ある若い女性薬剤師の物語・4
これは彗星のように輝やきながら飛び去った彼女の人生の軌跡をたどる物語です。
その4 中医学の道に進む
親が漢方専門薬局をやっていたので、
責任感の強い彼女は長女でもあり、いつかは漢方をやらねば、
と言う気持ちがあったのでしょう。
5年間世話になった日大板橋病院をやめ、
中国貿易をやっているイスクラ産業がやっている「イスクラ中医学研修塾」に入塾、
1年間寮に入り中医学を基礎からしっかり学び、
仲の良い友人もでき、最先端の西洋医学を学んだ後に歴史ある中医学を学び、
奥深い哲学を学んだようです。
さらに深く中医学を勉強しようと本郷にある中国政府が外国に作った
「北京中医薬大学日本校」にも通い始め、
3年間通って日本人として当時最年少で国際中医師試験に合格しました。
この時の苦労話は
「国際中医師とは中国政府が正式に認めた国際的に活躍できる漢方専門医」
をご覧ください。
(写真:病院退職時)
この学校は社会人教育の学校のため土日だけで、
1年コースの薬膳科と3年コースの中医中薬学科がありました。
この時も「 中医学は面白い」と一生懸命勉強し授業は隔週2回、
土曜日の午後5時から8時まで、日曜日は9時から4時まででしたが、
その日勉強したことはその日の夜中の2時ころまでかかってパソコンに打ち込み、
そのノートは学校の教科書にもなりました。
川越市の霞が関にある ウエマツ薬局の支店に勤め始め、
不妊相談や近所の人たちの健康相談に親身に相談にのっていました。
店の中は従業員とお客様が一体になったような和やかな雰囲気でした。
**次回は「その5 結婚そして料理 」です。**